ウイルス盗難は真実だった。 久しぶりに父の手記を見た。 書籍のプロローグ

ふと手にした手帳には手垢の痕が残っている。

 それと一緒に重ねておいてある冊子類。多くが父の書いた当時の記事だった。家族には笑みを絶やさなかった父の顔が、ぼんやりと思い浮かんだ。あれから月日は流れた。その所為か、あの頃の表情が鮮明ではない。父はさぞや無念だったであろう。そう感じる根拠は幾つもあった。だが、示せるほど確かなものでもない。何枚かページを捲り、一つの記事に視線を投じた。気概に満ちた記者としての文章。わたしは父の臭いを感じた。

 

昭和三十五年一月十六日、日本国内は騒然としていた。

 岸首相の渡米阻止運動が行われ、十九日には新安保条約の調印が交わされた。続いて国会請願運動が国立大を起点に始まり、衆参二万九千通の請願は国会史上空前の出来事となった。全学連一万人を超える抗議行動に国会周辺は異様な雰囲気に包まれていた。国会正門突入による流血騒ぎ。十七人現行犯逮捕。安保阻止に、大学構内で多くの反対闘争の火が立ちのぼった。総評等の統一行動では五百八十万人が参加し、右翼が参院通用門でデモ隊と交戦。多数の重傷者を出した。その日の夕方、七千人の全学連主流派が国会南通用門から突入。警察官と交戦し東大生一名死亡。五百五十人が負傷した。

 この日の惨劇は学生や警察にとって忘れられない闘争の幕開けになった。警棒で殴られ、腹を何度も蹴り上げられた学生たちは、瀕死の友人を助けることも出来ずに散り散りとなった。警察は一連の動きを扇動した首謀者のうち、二人の男を殺人未遂の容疑で追っていた。仲間の密告が決め手となって、一人の男子学生が逮捕された。残る一人も学生であろうか?当局にとっては不明な点が多く、情報は錯綜した。男は追い詰められると何をするかわからない危険人物だと噂された。その男に限って他に情報はなかった。恐ろしく頭が切れ、極めて凶暴で冷酷なこと。逮捕された学生仲間はそう供述していた。学生たちは男の名も居所も知らない。何故、その男につき従ったのかわからないが、いつも自分たちの上に立っていたと答えた。その後、多くの闘争や事件が続いたが男は現れなかった。しだいに警察庁内に当時のことを知っている者がいなくなった。いつの間にか男は忘れ去られ、当時の出来事は風化していった。

 わたしは思うのです。男は生きているに違いない。生きて社会にとけ込み職に就いているのだと。あいつに限って野たれ死にはない。

 あれこれ考えると、なぜか懐かしくも虚しく感じるあの時代は、若者の生きた証であり、それを示す唯一の手段が闘争であったのかもしれない。こんな話をどこかで耳にしたことがあります。

「奴はあの時どこかでくたばっちまったのさ」と――。

 今はただの噂話として、ここに記しておくだけにしよう。

記 遠山喜一郎


 久しぶりに父の手記を見た。ふと我に返ると、時間を無駄にしている自分に気づいた。冊子をダンボール箱に戻す。父の生きた時代。闘争という風化した文字が脳裏に浮かぶ。もはやセピア色の時代だ。二十一世紀は平和な時代の幕開けだと願っていたにもかかわらず、世の中はきな臭い時代にさしかかっていた。多くの人間は感じ始めているに違いない。今の平和が偽りであることを――。

 携帯電話が鳴った。父の思いに耽っている合間に、また何か起きたらしい。速いサイクルで社会は回っている。自分だけが悠長でマイペースなのだ。

「はい、遠山!」次の指示に備え始める自分がいた・・・

著者紹介
赤石紘二

著者メッセージ

今すぐサンプルを見る Amazonサイトで確認する アマゾンで書籍を購入する
この書籍のAmazonでのレビュー


赤石紘二の関連図書
この書籍をお友達に紹介する

Twitterでシェアする Facebookでシェアする

このページにコメントする

書籍のご感想や著者へのご質問など何でもご自由にご記載ください。
(コメントの投稿にはFacebookへのログインが必要となります。)