ハーバート・ニコルソン伝 ご購入はこちら 喜びの泉のおじいさん 愛の軌跡
クエーカー資料2

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本の概要・紹介文

クエーカー資料2 「喜びの泉のおじいさん 愛の軌跡」 ハーバート・ニコルソン伝
 
 本書は、著者が「クエーカー資料1」として出版した『エスター・B・ローズと普連土』に続く米国人クエーカー(キリスト教フレンド 派、キリスト友会)の宣教師ハーバート・V・ニコルソンの伝記である。著者は、高等学校在学当時から水戸基督友会の礼拝会に出席、ニコルソン夫妻を訪問し、夫人マダリンから英会話の指導を受け、一方でニコルソンの文書活動で代筆などを通して夫妻から多くの薫陶を得、その導きにより大学入学と共にクエーカーになった。会社務めを経て普連土学園中・高で歴史の教鞭をとった後、事務長になっていた著者が、2000年から2003年まで普連土学園『研究紀要』に4回に分けて発表した論文を本書の底本としている。
 著者は、今般の上梓に当たり、その後、ニコルソンの遺族バージニア、サムエル、ドナルドら子女のみならず、キリスト友会会員その他多くのニコルソン一家を直接知る人々から生の証言を得たり、長男サムエルが父ハーバートについて著者に書き送ってきたりした原稿や、著者自身の手元にあるニコルソン一家からの書簡類などに基づいてハーバート・ニコルソンの「愛の軌跡」を4部に分けて1冊にまとめた。

第一部 神は愛なり先生
ハーバート・ニコルソンは、1892年1月30日に生まれ、クエーカーの家庭や学校で育った。1913年にハバフォード大学を卒業後は、母校のウエスタウン校で教えていた。が、来日する決心を固めて1915年に初来日。来日直後はフレンド派の宣教師代表ギルバート・ボールスの下で書記として平和活動などに励んでいた。ニコルソンは、1918年9月15日に宣教師となる覚悟を基督(キリスト)友会礼拝会の席上で披瀝。その場にいた新渡戸稲造やボールス夫妻、あるいは茨城県下で伝道に携わっていたガーネイ・ビンフォード夫妻ら先任クエーカー宣教師の励ましを得て伝道に従事することになった。
1920年に近江兄弟社で琵琶湖畔の伝道に従事していたポール・ウォーターハウスの妹マダリン(1888年9月6日生)を妻に迎えたニコルソンは、後年フィスク大学やアーラム大学長となったトム・ジョーンズの後任として水戸に赴任。戦前は、ビンフォード夫妻、イディス・シャープレスらクエーカー宣教師と共に茨城県下を主体にした伝道活動に携わっていた。その傍ら、彼は1921年11月20日生まれのバージニア、24年6月24日生まれのサムエル、27年9月4日生まれのドナルドら幼い子女のために自宅で山羊を飼い、近隣農民の隣保事業として組合をつくり農村の生活改善に取り組んだりしたほか、大不況により行き場を失った老人の宿泊施設を開設したりした。一方、保育園を設けて幼児教育の面においても先進的な働きにも取り組んでいた。ニコルソンの社会的実践活動は、絶対平和主義者のクエーカーとして、キリスト教信仰の「愛」そのものの活動だった。そのため彼は「神は愛なり先生」、「ニコニコちゃん」などとも呼ばれ、多くの民衆から親しまれてもいた。
ニコルソンが責任者として取り組んだ組合事業は、素人であったがゆえに失敗し、帰国の遠因ともなった。しかし、彼の始めた老人施設は、後継者に恵まれて成長し、現在水戸市において「社会福祉法人愛友園」として、長い歴史の中で着実に歩みを進め結実している。
満州事変を経て日本が国際連盟を脱退すると、ニコルソンはスパイの嫌疑をかけられるなど、周囲の目は厳しくなった。彼の善意の活動は他の米国人宣教師同様に制限され、米国からの支援も打ち切られることになった。その結果、水戸を離れ神戸のカナディアン・アカデミーに移った。それも束の間、多くの宣教師同様に太平洋戦争を目前にして帰国した。

第二部 トラックを運転する宣教師
帰国後、ハワイの真珠湾攻撃によって米国との間に戦争が勃発すると、米国の日系人は強制的に隔離されることになった。ニコルソンは、太平洋戦争中はパサデナに在って、米国内10か所に強制収容された日系人のために、「トラックを運転する宣教師」としてマンザナをはじめとする各地の強制収容所を訪問しては日系人に必要な物資を届けたり、日系人救済の嘆願に直接ワシントンの国防省に赴いたり、ロサンゼルス近郊の日系人病院に結核患者を見舞ったり、あるいは各地で日系人擁護のための証言台に立ったりして、戦争の早期終結を祈念しながら、粉骨砕身、休みなく毎日献身的に無償の愛の働きを続けていた。

第三部 やぎのおじさん
太平洋戦争が終結すると、強制収容所から戻って来た日系人の世話をしながら、他方では米軍の爆撃によって悲劇がもたらされた日本国内各地の日本人救済のため、同時にまた米国人クエーカーとして自責の念にもかられ、自ら募金してララ(Licensed Agencies for Relief in Asiaアジア救援公認団体)物資として、水戸で自分が飼育した経験のある山羊を集めた。彼は、それらの山羊を贖罪の子羊の思いとして携え海を渡り、最初は1947年に廃墟と化していた沖縄に、次いで1948年からは困苦にあえいでいた日本国内各地の学校や民間施設に送り届けた。
その勤めを終えると、ニコルソンは世界福音伝道団宣教師会の宣教師として1950年に来日し、滋賀県の五箇荘に居を定めて、関西地方を中心に伝道活動を再開した。また、同年勃発した朝鮮戦争による韓国人被災者救済のため、山羊やニワトリなどの家畜を贈ることに決めて、日本国内各地の小学校などを回って窮状を訴え、寄付を募り、戦時下の韓国に送り届けた。
社会福祉法人法が制定されると、1952年には、戦時中も困難に直面しながら営んでいた水戸の老人ホームを社会福祉法人愛友園として、認可後はその初代理事長に就任した。
これらの間に、ニコルソンは、1948年に日本に届けた際に横浜で説明した山羊の話が、内容を少し脚色されて1953年には小学校5年の国語の教科書に「やぎのおじさん」として紹介され、当時流行していた童謡『めえめえこやぎ』の歌と共に全国に知られるようになった。
一方、ニコルソンは福島県下における障害児のための施設(現在の社会福祉法人いわき福音協会福島整肢療護園)開園のため、日米で映画を上映したり、講演を重ねて募金活動を展開し、また東北新生園などの施設を訪ねてはハンセン氏病により隔離されていた人々を励まし続けていた。
かかる5年の歳月を経て1955年に帰国すると、再びパサデナに住みカリフォルニア州の日系人のために奉仕を続けていた。が、1957年には水戸基督友会の滞在会員として伝道に従事することになり、日本での最後の伝道、愛友園や福島整肢療護園の発展のために尽瘁した。ニコルソンは還暦を過ぎていたが、日本各地にある刑務所の受刑者、結核療養所やハンセン病によりやむなく隔離されて暮らしていた患者、元患者らを対象とする文書や訪問による伝道を再開した。毎週、愛友園の老人を自転車で訪問した夫妻は、孤独な老人たちに大きな慰めを与え、水戸基督友会では聖書を教えたりもしていた。
1960年7月に長男のサムエル・ニコルソンが妻のアナ・マーガレットと1歳の長男ピーターを連れて来日、茨城県の下妻に居住し、高校生や英語教員のために英会話を教えることになった。同年秋、ハーバート・ニコルソンは「愛友養老園の社会事業により勲四等瑞宝章を贈られ」、また日米修好通商条約百周年記念式典では功労表彰された。が、古希を前に引退を決意、1961年9月末に帰国することになった。水戸での伝道と愛友園の理事は、1964年から長男のサムエル・ニコルソンが1966年まで引き継いだ。

第四部 喜びの泉のおじいさん
ニコルソンは、帰国によって宣教師を引退したのではなかった。パサデナに戻るとロサンゼルスの日系人教会から「牧師」として迎えられた。正式な牧師ではなかったが、神から直接啓示を受けたクエーカーとしてその牧会での勤めを果たした。また、ロサンゼルス近郊にある日系人が多数生活したり入院を余儀なくされたりしている数か所の老人施設や病院への定期的な訪問活動、日本国内や米国内から訪ねてくる多くの訪問者の案内、日本や米国内の友人、知人宛の文書伝道を続けていた。
やがて、愛妻マダリンが病臥すると、毎日その介護を続けながら、一人で休みなく訪問活動や来客のもてなしをしていた。まもなく、長女バージニアがインドでの奉仕を終えて帰国、看護師として働きを続けながら母親の介護を手伝うことになった。ニコルソン自身は、大腸がんの手術を受けたが、卒寿を前に運転免許の更新を断念してもなお、相変わらず愛の奉仕を継続、生涯をかけて神への祈りを求めてクエーカーとしての信仰を貫き、クエーカーの始祖ジョージ・フォックスの教えを説き続けた。この間、孫のピーターとクリストファーの大学や高校の卒業式、自分のハバフォード大学の同窓会が同時期に開催されると故郷を訪ね、米寿を前に最後の日本訪問を実行して旧知の人々との交流を深め、マダリンへの思いを残しながら1983年6月15日、91歳でこの世での働きを終えた。マダリンも同年10月17日に召天。子女のバージニアは1999年3月31日に、ドナルドは2009年11月25日に、サムエルは2022年2月21日に永眠した。

書籍冒頭のご紹介

凡例

・英語のThe Religious Society of Friendsは、キリスト教フレンド派のことで、日本語での正式名称は「キリスト友会」である。フレンド派の歴史上、「キリスト友会」のカタカナ表記は、日本年会の宗教法人化(1966年10月)以降に用い、それ以前は漢字で「基督友会」としていた。同様にその構成員である各月会もこれに準じていた。フレンド派は、前記正式名称より俗称のQuaker(クエーカー)がより一般的である。「クエーカー」は、蔑称ではあるが、宗派(キリスト友会)及び信者(友会徒、会員)双方に用いられている。本稿では文意により使い分けた。

・フレンド派では、単にSociety of Friendsや「友会」とも称しているところから、あたかも「クエーカー教」なるものが存在したり、関係団体のアメリカン・フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)が社会的な活動で歴史的にも大きな役割を果たしているため、事情を知らない方によって「Society」を「協会」と誤訳されたりしていることがある。

・これらを踏まえて、本稿では、その時代、時代に使われて呼称されていた用語を用い、誤訳は改めることに努めた。

・外国人名表記は、ハーバート・ニコルソンの妻「Madeline」を訳者により「マデライン」あるいは「マデリン」としているものがある。けれども、ハーバート・ニコルソンは妻を「マダリン」と呼んでいた。それゆえ本稿では「マダリン」にしている。同様に筆者と親しかった長女の「Virginia」は、「バージニア」、長男の「Samuel」は「サムエル」、二男の「Donald」は「ドナルド」と表記した。また、「Gilbert Bowles」は、これもハーバート・ニコルソンが「ボールス」と発音していたり、Gilbert Bowlesの日本生まれの二男Gordon Bowlesから、筆者は直接「ボールス」でよいと聞いていたりしたところから「ボールス」としている。以下、外国人名はすべて筆者の耳にしている発音を用いてカタカナ表記とした。

・ハーバート・ニコルソンの伝記の翻訳に関して言えば、日本人の登場人物は筆者も面識があり、直接知っていた方々が殆どである。これまで翻訳を手掛けた各位には、該当者を知らずに作業を進められていたことにもより、漢字表記には間違いが散見されていたので、本稿ではこれも正しい漢字表記に改めるよう努めた。

・本文中の外国人のミドル・ネームは、特に本人の指定があるもの、例えばエスター・B・ローズ以外に原則として省略した。



自序

ハーバート・ビクター・ニコルソン(Herbert Victor Nicholson、以下凡例に従いミドル・ネームを省略しハーバート・ニコルソンという)は、生涯日本人や日系米国人を愛してやまなかったクエーカーの宣教師であった。

彼の行動や教えによってフレンド派(クエーカー、キリスト友会、以下「凡例」のとおり)に限らずキリスト教各派に導かれた者は多かった。

太平洋戦争前の茨城県下における農村伝道により、友会徒(キリスト友会会員・クエーカー、同上)にはならなかったが、筆者の伯父もクリスチャンとなったその一人であった。筆者は、高等学校在学中にハーバート・ニコルソン夫妻との出会いがなければ、日本における水戸基督友会(キリスト友会水戸月会)会員になってはいなかった。また、普連土学園に勤務し経営に携わることも、水戸の学校法人少友学園(少友幼稚園)理事長としての役割を担う縁も生まれなかったと思う。

それは、神の摂理であった。

けれども、筆者の回心は、ハーバート・ニコルソンのようにはっきりと神の霊によって導かれたものではなかった。水戸基督友会会員になりたいとの希望が生じたのは、ニコルソン夫妻の伝道活動最後となった水戸における日々に、夫人マダリンに英会話を教えられながらハーバート・ニコルソンの書簡の代筆などの奉仕を通じて、真のクエーカーの生き様に接したことによる。

ところで、ハーバート・ニコルソンには、1974年3月に旧知の湖浜馨が翻訳し『やぎのおじさん行状記』として発表した自伝がある。ニコルソンはその原稿を手直し、同年のクリスマスに『TREASURE IN EARTHEN VESSELS』と題し米国で出版した。本論に引用した『TREASURE IN EARTHEN VESSELS』は、1972年の初版を74年に書き改めた第2版による。

また、ハーバート・ニコルソンは、その8年後の1982年、これらを基礎にしてマーガレット・ウイルケ(Margaret Wilke)との共著『COMFORT ALL WHO MOURN』を出版した。この伝記は日本の読者の手で『やぎの大使』や『悲しむ人たちをなぐさめよ』として翻訳され、販売されてもいる。しかし、『COMFORT ALL WHO MOURN』の翻訳書は、いずれもニコルソンの没後に出版されたので、訳者はニコルソンとの面識がなく、また友会徒でもない方々である。それゆえキリスト友会特有の用語や人名、地名、団体名などの固有名詞を含む言葉には、ともすれば正確さに欠けているものがあるのは否めない。

一例を挙げると原文の「The Society of Friends」を、『悲しむ人たちをなぐさめよ』では、宗教法人とは判別できない「フレンド・ソサエティ」と訳したり、「Friends Girls School」を『やぎの大使』では「フレンド女学院」と訳したりしていること等、ハーバート・ニコルソンが意識して書いたことや実際の固有名詞とは明らかに異なったものがある。前者は、正式名称の「The Religious Society of Friends」(日本語名ではキリスト友会)を略して「The Society of Friends」(友会)と称しているもので、これはニコルソンら米国のクエーカーがAmerican Friends Service Committee(AFSC)を単に「Service Committee」と称しているのと変りがない。後者の「Friends Girls School」は、正しくは漢字の「普連土女学校」即ち筆者が直接関係している現在の普連土学園のことである。

閑話休題。幸い筆者の手元には、1973年に日系米国人の歴史を聞き書きして、記録に残そうというプロジェクトに携わっていたベテイ・ミトソン(Betty E. Mitson)が、4日間ニコルソンを訪れて聞いた質問に対して、ハーバート・ニコルソンが語った時に録音したカセットテープがある。これは、生前ニコルソンがその一部を筆者に送ってきたものであり、『COMFORT ALL WHO MOURN』の参考資料となっているものでもある。

そこで、筆者はこれらの資料や、ハーバート・ニコルソンあるいは妻のマダリン、長女のバージニア、長男のサムエル、二男のドナルドから直接見たり聞いたり、手紙で教えてもらったりしていることなどをまとめて、ハーバート・ニコルソンの足跡をまとめ、すでに普連土学園『研究紀要』に次のように発表した。すなわち、出生から太平洋戦争に至るまでを「第一部(2000年普連土学園『研究紀要』第7号)、戦争中の期間を「第二部(2001年普連土学園『研究紀要』第8号)、戦後再来日して帰国するまでを「第三部(2002年普連土学園『研究紀要』第9号)、そして、引退して日系人のために働き亡くなるまでを手元にあった筆者の家族への書簡を中心に「第四部(2003年普連土学園『研究紀要』第10号)としたのである。

けれども、筆者の家族宛て私信の中には前記『研究紀要』に載せなかった未発表のものが複数残っており、ニコルソン関係の文書は、ロサンゼルスの全米日系人博物館以外には収蔵されていないところから、それらも含めて関連事項も併せながら公にしておくことも必要ではないかと考えた。

近年、戦後のララの救援活動に再び注目が集まってきておりハーバート・ニコルソンの働きも注目されるようになっていること、ハーバート・ニコルソンの長男サムエルも父の遺業について書き始め、筆者にはたびたび照会があったが、完成には至らずに永眠したことなどから、4年間にわたって発表した拙論(前記普連土学園『研究紀要』)に加筆してリライトすることにした。

本稿では「第一部」から「第三部」は、『研究紀要』の拙論を中心にまとめ、「第四部」をサムエル・ニコルソンの原稿(長男のピーターが浄書した)を加味し、最後の水戸を中心とする日本におけるキリスト教の伝道活動から、帰国してこの世での働きを終えるまでにまとめて、自らを「土の器」と称したハーバート・ニコルソンの足跡をたどることにした。

目次
  1. 凡例
  2. 自序

  3. 第一部 「神は愛なり」先生
    1. 一 日光留存克己(ニコルソンかつみ)・「五つの指」
    2. 二 日本赴任まで
      1. 1 学校生活
        1. (1)出生
        2. (2)小学校
        3. (3)中学・高校
        4. (4)大学
        5. (5)決心「わたしを遣わしてください」
      2. 2 日本赴任
        1. (1)着任
        2. (2)ギルバート・ボールス
        3. (3)米軍紀違反者の回心
    3. 三 宣教師となる
      1. 1 聖霊の声
        1. (1)クエーカー(フレンド派)の礼拝
        2. (2)ニコルソンの召命
        3. (3)新渡戸稲造の励まし
      2. 2 当時の水戸のフレンド派
        1. (1)クエーカーの水戸伝道
        2. (2)ニコルソンの前任宣教師
      3. 3 結婚
        1. (1)妻の実家
        2. (2)出会い
        3. (3)婚約
        4. (4)挙式
        5. (5)新婚生活
        6. (6)最初の休暇
        7. (7)ニコルソンの子女
      4. 4 水戸における戦前の活動
        1. (1)関東大震災
        2. (2)ハンセン病青年との出会い
        3. (3)東原の13年
        4. (4)子育て・教育
        5. (5)神の国運動と農村福音学校
        6. (6)「献金について」
        7. (7)休暇中フーバー大統領と会う
        8. (8)賜暇休暇中の留守居番
      5. 5 社会福祉への取り組み
        1. (1)「新生会」活動
        2. (2)「水戸市民館」活動と山羊牧場
        3. (3)昭和初期の恐慌
        4. (4)老人福祉の魁・水戸市民館養老園
        5. (5)紫苑寮から愛友園へ
      6. 6 水戸を離れる
        1. (1)軍部の台頭・戦争への道
        2. (2)日中戦争勃発当時のニコルソン
        3. (3)基督友会宣教50年と友会世界会議
        4. (4)神戸での一年
        5. (5)一時撤退・帰国

  4. 第二部 トラックを運転する宣教師
    1. 一 太平洋戦争前の米国と日本の国内情勢
      1. 1 米国における「排日移民法」の成立
      2. 2 満州事変勃発から太平洋戦争までの主要事項
      3. 3 宗教統制
        1. (1)明治憲法下の信教の自由
        2. (2)宗教団体法
        3. (3)基督友会の場合
    2. 二 帰国後の米国内の動静とニコルソン一家
      1. 太平洋戦争開戦のころ
        1. (1)パサデナ居住
        2. (2)パール・ハーバー
    3. 三 太平洋戦争中のH・V・ニコルソンの活動
      1. 1 日系人聴聞会における証人としての活動
      2. 2 アメリカン・フレンズ奉仕団支部での活動と辞任
      3. 3 日系人強制収容(転住)に際しての活動
      4. 4 マンザナ等収容所訪問活動
      5. 5 トラックを運転する宣教師
      6. 6 留置所連行体験
      7. 7 ヒルクレスト結核療養所訪問活動
      8. 8 二世部隊
      9. 9 国防総省へ
        1. (1)強制収容所閉鎖に向けて
        2. (2)強制収容所の廃止

  5. 第三部 やぎのおじさん 戦後日本における活動
    1. 一 1頭のやぎ
    2. 二 終戦直後の日本
    3. 三 ララ物資
      1. 1 ララの端緒
      2. 2 AFSCの人選
      3. 3 ララの代表
        1. (1)エスター・B・ローズ
        2. (2)代表の来日
    4. 四 やぎのおじさん
      1. 1 沖縄支援活動
      2. 2 不思議な体験
      3. 3 念願の日本へ
    5. 五 五箇荘での伝道活動
      1. 1 世界福音伝道団(WEC)への加入
      2. 2 軽井沢ニコルソン山荘
      3. 3 五箇荘(現在の五個荘)
      4. 4 やぎのおじさん韓国へ
      5. 5 世界福音伝道団(WEC)から帰国
    6. 六 再び水戸へ
      1. 1 桜町(さくらまち)
      2. 2 カルバリ会との交わり
      3. 3 ハンセン病関係者との交流
      4. 4 結核病棟訪問活動
      5. 5 福島整肢療護園との関り
    7. 七 外遊・社会活動・日本での最後の伝道
      1. 1 インドへの旅
      2. 2 社会福祉法人となった愛友園
      3. 3 サムエル・ニコルソン夫妻の来日と活動
      4. 4 キリスト友会地方月会への伝道支援・その他
      5. 5 帰国

  6. 第四部 喜びの泉のおじいさん ――晩年の信仰と実践――
    1. 一 パサデナでの新たな奉仕
      1. 1 東部クエーカーへの支援感謝の旅
      2. 2 日本伝道引退後の再来日
      3. 3 マダリン・ニコルソンの信仰
      4. 4 平和への願い
    2. 二 子女の帰国
      1. 1 長男サムエル・ニコルソン一家の帰国
      2. 2 筆者への励まし
      3. 3 日本人友会徒の訪問
      4. 4 愛友園への思い
      5. 5 バージニア3度目の一時帰国
      6. 6 バージニアの滞在先への訪問
      7. 7 金婚式、ハワイへの旅と来訪者へのもてなし
      8. 8 バージニアの病気による帰国とその見舞い
    3. 三 転居
      1. 1 終の棲家
      2. 2 『土の器の中の宝』の出版
      3. 3 『やぎのおじさん行状記』の出版
      4. 4 バージニアの同居
      5. 5 大腸がんの発症
      6. 6 出版本の在庫
      7. 7 孫たちの訪問
      8. 8 豊かな訪問者
      9. 9 死への備え
      10. 10 マダリンの短期入院
    4. 四 喜びの泉のおじいさん
      1. 1 喜びの泉のおじいさんとミス・ローズとの再会
      2. 2 マダリン89歳の誕生日
      3. 3 『土の器の中の宝』続編の刊行
      4. 4 訪問者とある葬儀
      5. 5 信仰継承の難しさ
      6. 6 募る日本再訪への思い
    5. 五 最後の日本訪問
      1. 1 最後の来日
        1. (1)到着
        2. (2)旅程
        3. (3)訪問先等
        4. (4)帰国後
      2. 2 エスター・B・ローズへの追悼
    6. 六 米国東部への旅
      1. 1 ウエスタウン校卒業後70年同窓会出席
      2. 2 日常生活への戻り
      3. 3 大腸がんの再手術
      4. 4 再手術後の経過
      5. 5 渡辺昌子の訪問
      6. 6 バージニアの骨折
      7. 7 米国東部への最後の旅
      8. 8 1981年のキリスト友会日本年会宛書簡
    7. 七 最晩年
      1. 1 卒寿を迎えて
      2. 2 生涯現役の宣教師
      3. 3 召天
        1. (1)臨終
        2. (2)訃報
        3. (3)『友』への掲載
        4. (4)フレンド派ヒラ・ストリート月会での追悼会
        5. (5)ユニオン教会でのサムエルの挨拶
        6. (6)日本での追悼会
        7. (7)ニコルソン夫妻の墓

  7. あとがき
  8. ハーバート・V・ニコルソン関連略年譜
    1. 参考文献・資料・論文・取材等
      1. 1 ハーバート・ニコルソンの著書
      2. 2 サムエル・ニコルソンの未発表原稿
      3. 3 ハーバート・ニコルソン一家からの書簡類
      4. 4 キリスト友会関連の歴史関係文献
      5. 5 キリスト友会の会員に関連する伝記その他の文献・原稿等
      6. 6 その他の伝記・日記類・事典等の文献
      7. 7 キリスト友会日本年会及び関係団体等の筆者(大津光男)小論文
      8. 8 キリスト友会・普連土学園関係機関紙、総会資料その他
      9. 9 親族以外で話を伺っていた人々(年代・順不同、重複あり)
著者紹介
大津 光男

著者は、高校生の多感な時期、当時は「やぎのおじさん」として親しまれたハーバート・ニコルソン夫妻に出会い、その簡素な生活と平和を愛し、結核療養所やハンセン病療養所あるいは刑務所に服役し生活している多くの人々に対して、等しく変わらずイエス・キリストの愛を伝えている姿を、直接自分の目で見、話を聞いた。そして、その熱い夫妻の信仰がフレンド派(クエーカー)の始祖ジョージ・フォックスの生き方と同じであることを学んだ。

その感化により、著者はニコルソン夫妻の最後の日本滞在中、二十歳を前に水戸基督友会(キリスト友会水戸月会)に入会した。以後、ニコルソン夫妻から多くの激励を受けて、その包括団体であるキリスト友会日本年会では総務書記や記録書記、財務や会計委員長などの諸役員を務めた。一方、勤務先の普連土学園では当初社会科教員として生徒の授業にも携わっていたが、1987年の創立百周年を機に定年まで事務長となり、以後は財務理事として日本のクエーカー関係の歴史に注力して、多くの史料収集に努めた。その結果を特に新渡戸稲造の業績や戦後日本へのララ物資による救援活動、学生時代に参加していたAFSC(アメリカン・フレンズ奉仕団)による国際学生ワークキャンプやFIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)、あるいはYMCA(キリスト教青年会)などの奉仕活動等についてまとめ、普連土学園『研究紀要』や新渡戸基金の『新渡戸稲造の世界』に発表した。それにより、2012年に第9回新渡戸・南原賞を受賞した。

現在は水戸市で、百年以上の歴史ある小規模な学校法人少友学園(認定保育園フレンド少友幼稚園)の理事長である著者にとって、「やぎのおじさん」や「喜びの泉のおじいさん」として親しまれた宣教師ニコルソンは、その妻子と共に親きょうだい同様、深い関係のある一家であった。

<著書> 『父を語る』、『ホイットニーとブレスウェイト』、『稲造精神とララ物資』、『基督友会日本年会と新渡戸稲造』、『中央大学YMCA・白羊会百年史』、『教会と幼稚園-水戸基督友会・少友幼稚園史』等

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