現役医師が描く、4編を含む医療サスペンス短編集 決戦は水曜日 ご購入はこちら
一人の少年の存在がそれぞれの人生の歯車を狂わせる 本の概要・紹介文

無職の邦雄は、看護師の紗栄子と彼女の連れ子・翔平と三人暮らし。翔平が次第に目障りとなった邦雄は、インフルエンザ治療薬”イナフル“の副作用に見せかけて、翔平の殺害を企てる。一方の紗栄子も、邦雄と翔平との生活をリセットしたがっていた――。一人の少年の存在がそれぞれの人生の歯車を狂わせる『決戦は水曜日』。

他3編のご紹介
  1. 週刊誌の編集を手がける加々美はある晩、医療ミスを告発する被害者家族のメールを入手する。スクープを予感した加々美は、大学時代の友人で医療関係に人脈のある徳丸に応援を依頼する――。新薬の開発に翻弄される人間たちを描く『ユータナイズド』
  2. 「理想の人」を求め、医師限定パーティーに足繁く通うOLの那智。ついにその人を見つけるが――『カモン・アイリーン』
  3. 息子の連れ・美千代から虐待を受け、瀕死の重傷を負った康江は命からがらクリニックに逃げ込むが、そこでも深刻な虐待が日々行われていた。そんな折、スマホで”みほりん”という名の女性が運営する「高齢者虐待撲滅サイト」を見つける――『オオヒキガエルの微笑み』
書籍冒頭のご紹介

『決戦は水曜日』

こたつに置かれたステンレス製の灰皿の縁で、一匹のはえとり蜘蛛ぐもうごめいていた。

川島かわしま邦雄くにおは吸いかけのマイルドセブンを挟んだ指を伸ばすと、蜘蛛の真上からそっと火先を押しつけた。米粒大の火球が一瞬だけ浮かび、一筋の煙が糸のように立ちのぼる。髪の毛を焦がしたような臭いに思わず鼻先をそむけた。

こたつに両脚を突っ込んだまま、ごろんと大の字になる。頭の後ろで両腕を組むと、天井に溶け込む煙をぼんやりと目で追った。

――今夜、しょうへいを殺す。

その考えは、閉め切ったこの六畳間にこびりついた紫煙のかすのように、かたときも邦雄の頭を離れることはない。

翔平はインフルエンザに罹ったとかで、今頃に連れられて、クリニックを受診しているはずだった。翔平という名前を思い浮かべるだけで居心地が悪くなる。

翔平の態度がいちいち邦雄を苛立たせるのだ。

路上の吐物から顔を背けるみたいにして、邦雄の横を素通りする。幼稚園児みたいに語尾を体言止めにして、タメ口をきく。他人行儀な声色で邦雄をアンタと呼ぶ。新人の営業マンみたいにぎこちない笑顔を、母親だけに投げる。拳を鳩尾みぞおちに打ち込んでやると、大げさに顔を歪めながら恨めしげに邦雄を睨みつける。そして、ボクだけはアンタの秘密を知ってるぞ、と口に出す代わりに鼻でせせら笑ったあの夜の翔平。

ここ何日かで邦雄の殺意はじわじわと水かさを増し、いまにも溢れんばかりになって堤防に押し寄せていた。

翔平は紗栄子の連れ子だった。

「人見知りの強い子だけど、あなたの方から心を開いてあげて。あれでも根はとても優しい子なの」

紗栄子とつきあい始め、そういう関係になってまもなく、中学二年生の息子がいることを紗栄子から打ち明けられた。邦雄は本気で惚れていたから、紗栄子に子供がいようがいまいが構わなかった。やがて、紗栄子のほうが邦雄のアパートに入り浸り、朝早くに自分のアパートへ帰って行く。紗栄子にしてみれば、邦雄と自分のアパートを往復するという、なんとも奇妙な二重生活を送り始める。

二人が籍を入れるまでにさしたる時間は必要なかった。結婚生活はそれなりに上手くいっていた。ところが、予想もしないことが起きる。邦雄は勤めていた会社を突然、解雇されたのだ。

邦雄に選択の余地はなかった。借りていたアパートを解約し、紗栄子のアパートに寄寓することを余儀なくされた。三人で生活を始めてみたが、次の仕事はそう簡単にはみつからない。紗栄子が昼間働いている間、必然的に翔平と二人で家にいることが多くなる。そうしてみて、改めて翔平という少年の異様さを肌身で感じることになった。

「人見知り」どころではなかった。翔平は自閉症としか思えなかった。紗栄子の助言どおり邦雄のほうから歩み寄ろうと、彼の好きなサッカーチームやAKBの話題を振ってみたりもした。だが、翔平は視線を一切交わすことなく、自室に戻ってしまう。朝起きてから寝るまで、翔平が一言も口をきかないなんてこともざらだった。

もうひとつ、邦雄を心身ともに苛立たせる事態が生じていた。このアパートに移ってから、紗栄子が夜の交渉に応じなくなったのだ。あれこれと思い当たる原因を考たりもしてみた。多感な思春期の男の子が同居している家だ。翔平が隣の部屋で寝ているときは、そういう行為ははばかられる。紗栄子はきっとそのように考えて控えているのだろう。邦雄はそこまでおもんばかってやった。でも、翔平がいない昼間、紗栄子が夜勤明けから帰ってきても、ちっともそういう雰囲気にはならない。

悶々もんもんとしていたある夜、少々強引に紗栄子に迫った。私は疲れているの。紗栄子は声を尖らせ、邦雄に背を向けた。気がつくと邦雄は紗栄子と口論を始めていた。そのとき、六畳間のふすまからわずかに漏れる明かりに気がついた。ふすまの間から、闇夜に瞬く猫の目のように、静かにこちらを凝視する視線がある。翔平だった。そのときの彼の仕草は今も脳裏に刻みつけられている。口元に軽蔑の笑みを微かに浮かべ、鼻でフンと笑ったのだ。自分の母親にしつこくせまっては拒絶されている憐れな男をあざ笑うような仕草だった。いや、実際に翔平は邦雄をあざ笑い、蔑んでいるに違いなかった。

邦雄と紗栄子は、世間でいうセックスレスの状態になっていた。あの自閉症の野郎が原因の発端だ。いつの間にか、うまくいかない原因をすべて翔平のせいにするようになった。

冬になった。インフルエンザが流行するかもしれないと、食事中に紗栄子が言った。翔平の学校でも流行の兆しが見えているという。

インフルエンザには「イナフル」という特効薬があることは邦雄も知っていた。だが、イナフルを飲むと異常行動が起きることを知ったのは、ニュースを見てからだ。異常行動は特に思春期の子供に多く起きるという。突発的に窓から飛び降りたりする危険があるから目を離さないように、とニュースでは喚起を促していた。とはいえ、イナフルを飲んだ子供が全員そのような行動を取るわけでもあるまい。ごくまれなケースに違いない。マスコミはすぐに鬼の首を取ったように大騒ぎするものだから。

イナフルによる異常行動のことなどさして心にも留めないでいたが、ある日天啓に打たれたかのように、それは突如頭の中に舞い降りた。

――イナフルによる異常行動にみせかけて、翔平を殺す。

邦雄は荒唐無稽なその考えを何度も頭から追い払おうとした。だが、追い払おうとすればするほど、殺害のシナリオが頭の中で勝手に組み立てられていく。

そのシナリオは邦雄でも十分演じ切ることのできるものだった。逃げ隠れする必要もなければ、アリバイを証明する必要もない。この部屋でいつものように晩酌を続けているだけでいいのだ。

まず、紗栄子の夜勤の日に狙いを定める。夜、アパートの外に人気の少なくなった頃を見計い、風邪薬で眠っている翔平を担いで、この部屋のベランダから外に投げ落とす。窓はそのまま開けっ放しにしておく。そして、また六畳間に戻って、素知らぬふりで酒を飲み続ける。あるいは、煙草をふかし続ける。アパートの外がにわかに騒がしくなるだろう。救急車のサイレンが次第に大きくなってくる。いよいよ警察のお出ましだ。連中が邦雄の部屋をノックする。

この辺で何かあったんですか? 邦雄は恭しく応対してみせる。お宅のお子さんと思われる子が窓から飛び降りたようです。えっ。驚き、動揺してみせる。あるいは、大袈裟に泣き崩れてみせる。たちまち重要参考人として署に連行される。隣の部屋で酒を飲んでいただけです。イナフルのことは告げずに、翔平がインフルエンザにかかっていることだけ伝える。あとは勝手に捜査が始まるだけだ。

「この辺で何かあったんですか?」

邦雄は声に出して言ってみた。――抑揚がなさすぎる。学芸会の小学生でもこんな棒読みはしない。今度はもう少し感情を込めてみる。

「この辺で、何かあったんですか?」

どこか白々しい。台詞せりふの上っ面だけ撫でている感じだ。いや、そもそもこの台詞自体がおかしい。いくらなんでも、この辺で何かあったのかはないだろう。何かあったから、救急車や警察がわざわざアパートまで来るのだ。

「事件ですか?」

これもしっくりこない。最初から連中が来るのを身構えているのが見え見えだ。

「ご勤務、ご苦労様です」

これも最悪だ。検問中の警察官をねぎらっているのではない。

邦雄はいつのまにか苦笑していた。

今晩が待ちきれなかった。紗栄子が夜勤で、翔平がインフルエンザで床に伏している日など二度と訪れないだろう。そう思うと、胸の鼓動が高まってくる。

灰皿に手を伸ばし、灰だけになったタバコの火先を躙り潰した。灰皿の縁に、乾いた泥の塊みたいな蜘蛛の残骸がこびりついていた。

目次

『決戦は水曜日』

『ユータナイズド』

『カモン・アイリーン』

『オオヒキガエルの微笑み』

著者紹介

東京都出身。医師。医学博士。関東地方の病院の勤務医。

医療に携わる傍ら、日本語・英語による医学論文の執筆、査読、 医学雑誌での連載などの執筆活動をしている。 今回、 ホロコーストをテーマにした長編小説を上梓、 その他短編小説も手がける

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