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「僕らはもう少しクレイジーにならなきゃ、生き延びることなんてできやしないんだ」 本の概要・紹介文

2015年、医学生の萩原章吾は、国際学会に出席する先輩医師のお供としてベルリンを訪れていた。

前夜バーで知り合ったばかりの瑠奈と、郊外のザクセンハウゼン強制収容所博物館を観光中、テロに巻き込まれる。凶弾で意識を失い、再び眼を覚ました章吾は異変を察する。ナチス親衛隊の制服を着た男たちに、どやされるようにして収容所へ入った章吾は、そこが別世界であることを悟った。検疫所で全身の毛を剃られた章吾は、縦縞の囚人服をあてがわれ、にわかに囚人となる。そこで親しくなったユダヤ人のフィリップと会話するうちに、自分が1944年にタイムスリップしたことを知る――。

元凶悪犯のフランケン、ポーランドの元司教セバスティアン、ロシア人捕虜のコーリャ、元教員のヤツェクなど、一癖も二癖もある囚人仲間と過酷な収容所生活を送る羽目になった章吾。ある朝、悪魔の伝染病ーー発疹チフスにかかり、医療棟へ隔離されるが……。

ナチスドイツ、ホロコースト、そして第二次世界大戦末期のベルリンと現代が交錯する”医療アドベンチャー”。現役医師による書き下ろし長編。

主な登場人物

はぎわらしょう

 医学部五年生。日本人。幼少期をロンドンで過ごしたため、英語が堪能。瑠奈とともにタイムスリップする。

 日本人。ベルリン観光中にスポーツバーで章吾と出会う。

フィリップ・アプフェルバウム

 囚人仲間。ハンブルク出身のユダヤ系ドイツ人。数カ国語を話す。ザクセンハウゼンに収容される前は舞台俳優や大道芸人をやって生活していた。

セバスティアン・マチェク

 囚人仲間。ポーランド人。ワルシャワ郊外のカトリック教会の元司教。ナチスのポーランド侵攻で異教徒と見なされ、収容所に送られる。

ヤツェク・ノヴァコフスキ

 囚人仲間。ポーランド人。クラクフ大学の教員であったが、反ナチ運動で政治犯としてとらわれ、収容所に送られる。兄はポーランド将校で、カチンの森事件で虐殺されている。

コーリャ・オルロフ

 囚人仲間。ロシア人将校だったが、捕虜として収容所に送られる。セバスティアンの熱烈な崇拝者で、カトリックに改宗した。

マルティン・マイヤー

 囚人だが、医療棟管理を任せられている。元はザルツブルクの開業医。

ハンス・ヴィンケルホック

 囚人長(カポー)。ドイツ人。元ゴロツキ。その容貌から陰でフランケンと呼ばれている。

ハリー・ロムニッツ

 囚人長(カポー)。ユダヤ系ドイツ人。棟管理者。元詐欺師。フランケンの補佐をしている。

アントン・カイントル

 収容所所長。大佐。親衛隊員。

ハインツ・バウムケッター

 医師長。大尉。親衛隊員。

ヘルマン・ゲルツ

 親衛隊員。章吾の棟の管理者。死刑執行人。妻と子供二人がおり、収容所近くにある兵舎に住んでいる。 

ハインリッヒ・ヒムラー

 親衛隊全国指導者。菜食主義者。

キルステン・プレガー

 兵舎の秘書。ドイツ人。

書籍冒頭のご紹介

第一章 クレイジー


きみに会ったら、僕はもう一度きみの顔に触れる。君と旅すれば、奇跡は起こる。でもその前に、僕らはもう少しクレイジーにならなきゃ、生き延びることなんてできやしないんだ。

――『クレイジー』シール――


 1


アウシュビッツだけが、強制収容所の代名詞だとばかり思っていた。

だから、しょうがガイドブックでその存在を知ったときは、ちょっとした掘出物を探し当てた気分になったものだ。

ザクセンハウゼン強制収容所は、ベルリン中心部から三十キロほど北の、オラニエンブルク市内にある。地理に暗い章吾でも、快速電車とバスを乗り継げばベルリン中央駅から一時間とかからない。にも関わらず、ここを訪れる観光客がさほど多くないのはどういうわけか。

人影もまばらな『収容所通り』を歩きながら考える。

それはこの地が、決して拭い去ることのできない歴史の汚臭を嗅ぎ取られぬよう、ベルリンの果てで七十年もの間、人目を忍んできたからのように思えてならない。

この観光スポットは、一言で掘出物と呼んでしまうにはあまりに慎ましいのだ。隣を歩く女性のほうが余程、掘出物と呼ぶに相応しい華と意外性を備えていることに今更ながら気づいた。

彼女はと名乗った。昨晩スポーツバーで知り合ったばかりだ。もっとも、初めての異国のバーで、サポーターとの一悶着も辞さない彼女のことだ。掘出物などと勝手に思われているのを知ったら、さぞ機嫌を損ねることだろう。ちょっと、私は物じゃないんだけど、と。

横目で瑠奈を見た。

茶髪のソバージュと言えば聞こえはいいが、一歩間違えると今さっき火災現場から避難してきたみたいに見えなくもない、彼女の小顔に不釣り合いなボリューム感。ウエストのところで砂時計みたいにくびれたライトグレーのダウンコートの首元からは、暖かそうな黒のタートルが覗いている。膝下まで覆うダウンの下にかろうじて見えるスキニージーンズは、キャメルのロングブーツの中にすっぽりと収まっていた。

そういう章吾のほうは、いちおう中綿は入ってはいるものの薄っぺらい、茶色のモッズコートをグリーンのセーターの上に羽織っているだけだったから、ときおり風が吹きつけるとけっこう身に堪える。

瑠奈の口から奇声が漏れた。

「ちょっと、これ、シャレになんないんですけど」

瑠奈は、大理石色の煉瓦壁に展示された一枚の写真を凝視していた。

モノクロの淡光の中、手前に横たわる男性に、否が応にも視線は釘付けになる。

「章吾くん、英語、メチャ得意じゃん。訳してみてよ」

脚注はまずドイツ語で、その下に英語でそれぞれ記されていた。英語のタイトルを訳してみる。

「三万五千人の囚人たちが死の行進に駆り出された」

「死の行進? 一体どういうこと?」

「ていうか、瑠奈さんは……」

「だから昨日からずっと言ってるじゃん、瑠奈でいいよって」

視線は写真に向けたまま瑠奈が言う。

「瑠奈は平気なんだな、、こういうのを見るのは」

瑠奈は、枯れ葉のベッドに横たわる男性に目を凝らしていた。縞模様の囚人服を着た男性はほぼ仰向けに倒れているけれど、左肩はよじれていて解剖学的にありえない方を向いている。宙を仰ぐ乾いた瞳とうすら開いた口元を見れば、すでに息絶えているのがわかる。遠景にある森の中からは、コートを着た数人の男たちが死体を覗き込むともせず、カメラを見据えながら歩いてくる。

脚注をさらに追う。

――ひどい悪夢の中でさえ、我々を待ち受ける恐怖を想像することはできなかった。まもなく、その最初の夜、さほど遠くないところで銃声を聞いた。我々は、囚人の死体を飛び越えた。前に進めぬ者はまさにその場で撃たれるのだと悟った。それは何日も続いた。それはまさに「死の行進」だった。想像しても見るがいい……

「章吾君、やだー。変な博物館に連れてこないでよ」

「一緒に行ってみたいと昨晩言っていたじゃないか」

「ぜんぜん覚えてないわ」

頭を抱えたくなった。

どういう話の流れで二人は、この収容所に来たのか思い起こしてみる。それ以前に、どうして章吾が今ベルリンにいるのか。話せば少し長くなる。

章吾は医学部の五年生だ。

想像したくもなかったが、来年の今頃もまだ五年生であることはほぼ間違いないだろう。今月終わったばかりの後期試験の出来が、章吾の将来を明示していた。もう医者になれないとすら感じている。そもそも医者に向いていないとさえ思う。

自宅で塞ぎ込んでいたら、サッカー部の四つ上のOBから電話があった。ベルリンの国際学会で留学先のボスとの面接があるから通訳をして欲しい。その先輩は入学のときから章吾に目を掛けてくれていた。最初から断る選択肢はなかった。

なんでもその先輩は、大学院の学位をドイツで取得したいらしく、教授から推薦状を書いてもらっていた。ドイツ国内のめぼしい研究所に片っ端から嘆願書を出したところ、ただ一つハイデルベルクの研究所から返事が来た。そこのボスが言うには、まずはベルリンで開催される欧州外科学会で面接してから、採用するかしないか決めるとのことだった。ところがその先輩と来たら、英会話はからっきしダメなのだ。そこで章吾に白羽の矢が立った。

章吾は、父親の仕事の関係で小学校四年までずっとロンドンにいた。だから、英語はネイティブ並みなのだ。帰国子女の多くは米国帰りで、章吾のような英国訛りは珍しいらしく、昔からよく英語の先生に発音を褒められたものだ。

自慢しているわけじゃない。でも、試験を満足にパスできず、すべてが空回りしている章吾にとっては、今やそれが唯一のアイデンティティになりつつある。

「この本返すね。収容所のことは一ページしか載ってないんだもん」

瑠奈は、『地球の歩き方 ドイツ 2015―16年版』を差し出した。このガイドブックによって、ここがナチス時代に作られた強制収容所の中でも最も古いもののひとつであることを知ったのだった。

章吾は立ち止まると、本をリュックに仕舞った。

地元の中学生と思しき男女の一行がこちらに向かって来た。体格は皆立派だが、あどけない顔つきを見ればまだ中学生だとわかる。物珍しげな複数の視線が章吾の頬に突き刺さった。最後列の男の子らが、こちらを見ながら何か囁いている。非対称に歪んだ彼らの口元には、好奇と嫌悪がくっきり刻まれていた。

「中国人がここに何の用だ?」

すれ違いざま、尖った英語が飛んできた。集団の後方から、にわかにざわめきが漏れる。瑠奈が肘で章吾の注意を促した。「あいつら今、失礼こと言わなかった?」

章吾は眼で肯いた。瑠奈の顔色がにわかに変わった。

おい、少年たちヘイ、ボーイズ。あいにくうちらは日本人だよ」

瑠奈は声を荒げた。少年たちの視線が一斉に、小柄な瑠奈に降り注いだ。

どう聞いてもカタカナ英語のアクセントだったが、ちゃんと通じていることに驚く。それだけで気持ちは収まらないのか、瑠奈は叫びながら中指を突き立てた。

「ファック・ユア・マザー!」

少年たちはぽかんと口を開けたまま、その場に凍りついていた。

大した度胸だ。章吾は呆れると同時に、胸のすく思いで少年たちの横を通り過ぎた。

瑠奈の歩幅に合わせながら、収容所通りを十数分ほど壁伝いに歩き続け、壁の途切れたところを左に抜けると、三階建ての白い建物に辿り着いた。インフォメーションセンターでもらった日本語版の冊子をコートから取り出す。

『Aタワー』

どうやらここが収容所の正門のようだ。白亜の壁は染み一つなく、手入れが行き届いていて、かえって訪れる者の心を落ち着かなくさせる。それがこの博物館の演出なのかなどといらぬことを考えてしまう。

三階の切妻部分に嵌め込まれた時計は、十一時を指していた。

正門の奥に格子状の鉄の門扉があった。扉にはドイツ語でこう刻まれている。

ALBEITアルバイト MACHTマヒト FREIフライ

インターネットで読んだ受け売りのネタで、章吾は得意げに解説を始めた。

「これが悪名高い文句だよ。直訳すれば、『労働は自由をもたらす』という意味なんだ。ナチス時代、多くの収容所の門にはこの文句が刻まれていた。けれども現実は正反対だったんだ。この門を一度くぐったら最後、死ぬまで出ることはできない。つまり、……」

ふと違和感を覚え、振り返ると、瑠奈の姿が見えない。

ぐるりと正門の前の庭を見渡すと、ライトグレーのダウンが目に入った。枯れ木の植込みの縁石を椅子代わりにしている。左肘を膝に立てかけ頬杖をつき、気だるそうに右手の親指でスマホの画面を縦横に撫でている。

・・・

目次

【主な登場人物】

第一章  クレイジー

第二章  キス・フロム・ア・ローズ

第三章  プレイヤー・フォー・ザ・ダイング

第四章  オーディナリー・ワールド

著者紹介

東京都出身。医師。医学博士。関東地方の病院の勤務医。

医療に携わる傍ら、日本語・英語による医学論文の執筆、査読、 医学雑誌での連載などの執筆活動をしている。 今回、 ホロコーストをテーマにした長編小説を上梓、 その他短編小説も手がける

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