国境を超えれば ご購入はこちら 廣田尚久
1945年8月15日、植民地の平壌。

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本の概要・紹介文

 1945年8月15日、植民地の平壌。玉音放送を聞いて敗戦を知った高田家の5人(父正廣、母寿美、長男真造12歳、長女理恵10歳、次男高志7歳)は途方にくれた。その日のうちに気勢をあげた朝鮮人はデモ行進をし、平壌神社に火をつけ神社は炎上する。平安南道の古川道知事は、民族主義者の曺晩植に連絡を取り、植民地の独立を目指す建国準備委員会をつくらせて事態の収拾に奔走し、やがて平壌は落ち着いてくる。しかし、ソ連兵が平壌を占領して、平壌市民の家に押し入り、乱暴狼藉の限りを尽くすようになった。高田家にも2度ソ連兵に襲われ、さんざん家の中を荒らされたが、寿美と恵理は天井裏の部屋に逃げ込んで無事だった。ところが3度目の襲来のときに、真造がソ連兵に腕時計を渡すと意外にも卵2つを差し出された。学校は閉鎖され、怠け者の高志は開放感を覚えるが、勉強家の真造は高志を放っておかず九九を教える。高志は一向に九九を憶えなかったが、それでも真造について歩き、ポプラ並木や大同江の風景を楽しむ。やがて高田家の自宅は接収され、一家5人は、納戸の板の間に茣蓙を敷いただけの8畳間に移転する。それから引き揚げを待つばかりの日常生活がはじまるが、いつソ連兵や朝鮮人に襲われかもしれない不安から逃れることはできない。正廣は、もともとは卸問屋の若旦那だったが、たまたま終戦時には騎兵隊の中隊長だったので、召喚されて捕虜収容所に収容され、一家は1人と4人に分裂する。ある日、店の取引先であった李聖元が寿美を訪ねて来て、接収された家は参謀兼通訳のカン少佐が住んでいると伝える。そして、カン少佐は朝鮮民族の赤軍将校であり、夫人も朝鮮民族であるが、その夫人は教養がないので、夫人の家庭教師になってほしいと頼まれる。しかし、寿美はロシア語も朝鮮語も話せないからと言っていったん断るが、通訳なら日本語に堪能な長男永植にやらせるという。こうして寿美はカン夫人の家庭教師になり、かつて住んでいた家に通うことになった。真造について歩いていた高志は、それからは寿美について歩くことになり、カン一家の生活を見聞する。やがて、トラックを雇って三十八度線を越えて引き揚げる話が持ち上がり、捕虜収容所で面会した正廣が「帰れるときは早く帰れ。僕はあとから帰る」と言うので、4人は引き揚げの途につく。ぎゅう詰めのトラックを降ろされ、馬小屋で泊まったり、橋の下で野宿したりしながら、やがて川を渡って丘を越え、三十八度線の国境を越えて開城の引揚者キャンプにたどりついた。

 それから45年。それまでに李聖元一家は脱北してソウルに移住していた。永植は弟たちとコンテナー製造会社を興し、自分は会長になって東京に支店を設けた。そして、商談で東京に来て、弁護士になった高志としばしば会食し、会談を楽しんだ。時に韓国とソ連は国交を回復し、雪解けに向かった。そして、永植は実業団の一員として、盧泰愚大統領とともに、モスクワに行くことになった。永植はその機会にカン少佐を探し、探し当てたらカン一家をソウルに招くので、そのときにはソウルの来ないかと高志を誘った。高志はもちろん行くと2つ返事をしたものの、カン少佐の消息はなかなか分からなかった。しかし年をまたいだある日、永植から電話があり、消息は分かったがカン少佐は亡くなったと知らされた。けれどもカン夫人をソウルに招くというので、高志はソウルに飛ぶことになった。そして、カン夫人と感動の再会。高志は、カン夫人から「タカタさんは美しい人だった」という言葉を聞いて感激し、平和の価値と戦争の惨禍に思いをめぐらした。そして、民衆は民族や国境のボーダーを越えて繋がっていることを知り、すでに故人となった真造と寿美のことを想って、平壌の日々を述懐する。

 あらすじは以上のとおりであるが、この小説は、引き揚げを待つ一家のこまごまとしたエピソードで綴り、ロシアや朝鮮の人々の日常の営みを語り、戦争のない平和を祈願しながら書き進められている。

書籍冒頭のご紹介

玉 音 放 送

 戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず……
ラジオに雑音が入り、声に波を打つような抑揚があって、よく聞き取ることができなかったけれど、このお言葉だけはしっかりと寿美の耳に入った。
放送は、なおも続いた。声を出す者は誰もおらず、オンドルの部屋に集まった四人は、何とか音声を聞き取ろうと聞き耳を立てた。
――なんじ臣民それよく朕(ちん)が意を体せよ。
放送は終った……
急に窓の外から蝉時雨が降りそそいできた。
四人は薄暗いオンドルの中で、うな垂れて蝉時雨を浴び続けた。
しばらくして、長女の恵理がスクッと立ち上がって、
「何を言っていたのかぜんぜん分からない!」
と叫んだ。それに長男の真造が、
「これは……」
と言いかけて、口を噤(つぐ)んだ。
また、みんな黙り込んだ。するとたちまち蝉が喧(やかま)しく騒ぎ立てた。
「負けたのだよ」 
夫の正廣がポツリと言った。
「どうして? どうして⁉」
恵理の詰問に、正廣が答えた。、
「米英支蘇に対し、共同宣言を受諾すると……」
「どうして! なんで負けたの⁉」
この恵理の言葉は、さっきから寿美の頭の中を駆けまわっていたことだ。
四人は、また黙り込んで首を垂れるしかなかった。
やっぱり負けたのだ。負けてしまったのだ。寿美は突然荒野に放り出されたような気持になった。
これからどうなってしまうのだろう。どうしたらいいのだろう。何も分からない。何も分からない……

次男の高志は、玄関から門に降りる石段の手すりにクレヨンを置いて、「じっけん」をしていた。
国民学校の二年生になってから理科の授業がはじまり、実験をしたことは面白かった。それにくらべて、音楽の時間は味気ないものだった。音楽の時間といってもしょう歌を歌うわけではなく、モールス信号を覚えるだけだった。
トツー、トツートツー、ツートトト……
はいっ!
トツー、トツートツー、ツートトト……
覚えにくかったら、こうやって覚えるのよ。
イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ……
さあ、覚えやすいでしょう。はいっ!
イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ……
ハーモニカは分かるが、イトーはよく分からない。ロジョーホコーはぜんぜん分からない。トツートツーを覚える前にロジョーホコーを覚えなければならない。変なことだ……
先生は、全員そろって言わせたり、口を開かない生徒を起立させて唱えさせたりして、いっしょけんめだ。
しかし、こんな面白くないことが、頭に入るわけはない。
次の音楽の時間には、あらかた忘れてしまっているから、また最初からやりなおしになる。
トツー、トツートツー、ツートトト……
音楽の時間は、この繰り返しばかりで、そのうちに一学期が終わってしまった。
そこにゆくと理科は楽しかった。
顕微鏡でバイキンを覗いたときもびっくりしたが、実験にも驚かされた。
先生が理科教室の大きな机に一つずつ置かれたアルコールランプに火をつけてまわったときには、何がはじまるのかと思ってドキドキしたが、その上の鉄の皿にロウソクを乗せ、それが見る見る溶けていったのには、目が覚める思いがした。
先生は、黒板の前に行き、みんなを見まわして、
「ロウソクを溶かしたものは何か分かるかな。分かる人!」
と言った。高志は、皿があつくなったからだと思って、手をあげようとしたが、誰も手をあげないので、あげかけた手を引っ込めた。先生は、黒板に、
「熱」
と漢字で書いて、
「この字は、ネツと呼びます。ロウソクを溶かしたのは、熱です。これから熱の勉強をします」
と言った。
これは高志にとって思ってもみないことだった……
一学期が終わって夏休みになり、八月一五日になった。
その日は、太陽が真上からギラギラと照りつけ、焼けるような暑さだった。玄関を出て門に向かって階段を降りようとして手すりに手をかけると、アチッと声に出すほどの熱を持っていた。
そのときとっさにひらめくものがあった。それならば、この熱でクレヨンが溶けるだろうか。
高志は、急いで玄関に引き返し、机の中から八色のクレヨンの箱を持ってきて、階段の手すりのところまで戻った。
まず、青色のクレヨンを手すりの上に乗せてみた。うまく溶ければ、クレヨンでいろいろな形のものをつくることができる。しかし、クレヨンは溶けなかった。では、白ならばどうだろう。高志は、白色のクレヨンを青色の隣りに置いてみたが、相当時間が経っても溶ける様子はなかった。こんなにあついのに溶けないのか。それならば、黒はどうだろうか。たしか先生は、黒は熱を吸収しやすいと言って、黒板に「吸収」という字を書いたっけ……
しかし、黒も溶けなかった。何だ、溶けないのかと思ったとき、蝉の声が大きく聞こえた。その蝉の喧しさのために、かえって家の中がやけに静かだということに気づいた・・・

目次
  1. 玉 音 放 送
  2. 狼 狽
  3. 平壌神社炎上
  4. 投 函
  5. 道 知 事
  6. 学 校 閉 鎖
  7. 戦争ごっこ
  8. 天井裏の部屋
  9. ソ連兵の狼藉
  10. 交 換
  11. 接 収
  12. 大 同 江
  13. ヒマワリの種
  14. 収 容
  15. 同 居 人
  16. 万 年 筆
  17. 栄 光 の 日
  18. 乙 密 台
  19. イ タ コ
  20. 怪 談
  21. 日常の中で
  22. 高 熱
  23. 家 庭 教 師
  24. 混 ぜ ご 飯
  25. 運 針
  26. 道 す が ら
  27. 交 通 事 故
  28. 相 談
  29. 三 合 里
  30. 打ち合わせ
  31. 出 発
  32. 馬 小 屋
  33. 検 問
  34. オイキムチ
  35. 橋 の 下
  36. 三十八度線
  37. 鎮 魂 歌
  38. 使 節 団
  39. 消 息
  40. 再 会
  41. 述 懐
著者紹介

著者:廣田尚久(ひろた たかひさ)

1938年生。東京都出身(平壌生まれ)。東京大学法学部卒業後、川崎製鉄(現在のJFE)入社。66年同社を退社し、司法研修所入所。68年弁護士登録。93年九州大学法学部・大学院法学研究科非常勤講師。05年法政大学法科大学院教授。主な著書に『弁護士の外科的紛争解決法』(自由国民社・1988年)、『不動産賃貸借の危機』(日本経済新聞社・1991年)、『紛争解決学』(信山社・1993年)、小説『壊市』(汽声館・1995年)小説『地雷』(毎日新聞社・1996年)、『上手にトラブルを解決するための和解道』(朝日新新聞社・1998年)小説『デス』(毎日新聞社・1999年)、小説『蘇生』(毎日新聞社・1999年)、ノンフィクション『おへそ曲がりの贈り物』(講談社・2007年)、『先取り経済の総決算―1000兆円の国家債務をどうするのか』(信山社・2012年)、『和解という知恵』(講談社現代新書・2014年)、小説『2038 滅びにいたる門』(河出書房新社・2019年)、小説『ベーシック―命をつなぐ物語』(河出書房新社・2019年)、『ポスト・コロナ 資本主義から共存主義へという未来』(河出書房新社・2020年)、『共存主義論―ポスト資本主義の見取図』(信山社・2021年)、『ポスト資本主義としての共存主義』(信山社・2022年)

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