AI音声解説
再生ボタンを押すとAI音声のナレーションを聞くことができます。
それぞれテイストの異なるショートミステリー5篇を収録。
いずれもあっと驚く結末が待ち構えています。
「犯人当て」とはまた違うミステリーの世界をお楽しみください。
一話 パンのない明日
1
資産家A氏宅
「・・・もしもしAさんか?」
「そうですが・・・どちら様?」
「いいかよく聞け、あんたの息子は預かった。金を用意しろ」
「えっ!何ですって?」
「何度も言わすな!あんたの息子を誘拐した。返して欲しけりゃ金を用意しろ、そう言ってるんだ」
「ち、ちょっと待って下さい。あなた一体誰ですか?」
「誰でもいい!とにかく息子を無事に返してもらいたければ金を用意することだ、いいな!」
慌てて時計を見た。午後三時四十五分・・・息子の昭一が学校から帰宅する時刻をすでに十五分過ぎている。しかし昭一はまだ家へ戻っていない。昭一はこの春、小学生になったばかりだった。
「いいかよく聞け、このことは絶対に警察へは通報するなよ。もし警察へ連絡したら息子の命はないものと思え。分かったな!」
いきなりこのような電話が掛かれば誰だって混乱する。
「ほ、本当ですか・・・息子を誘拐したって?」
「当たり前だ!冗談でこんな電話はしない!」
言われてみればその通り、間の抜けた問いだった。A氏は気を取り直し
「お、お願い致します!どうか息子に危害を加えないで下さい。出来ることは何でもしますから・・・」そう、懇願した。
「そうそう、そう来なくっちゃ。あんたもどうやら話が分かってきたようだな。では次の電話を待て」
「ま、待って下さい」
「いいか、これだけはもう一度言っとく。次に連絡があるまで絶対に警察へは通報するなよ。いいか、絶対だぞ!」
「・・・分かりました」
「でもそのあとはAさん、あんたに判断を任せるよ」
「・・・どういうことですか?」
「文字どおりの意味さ。そのあとは警察へ連絡してもいいし、しなくてもいい、そういう意味だ」
「・・・おっしゃってる意味がよく分かりませんが?」
「まぁいい、すぐ分かる。とにかくオレは今、大きな賭けに出ている。あんたが警察に通報しない方へ、ってね。それじゃまた・・・」
「あっ、もしもし、もしもし・・・」電話は切れていた。
受話器を置いたA氏に残ったひとつだけの印象・・・特徴的な男の声。
2
「お父さん、いよいよ今日が最後のお勤めですね」
カップにコーヒーを注ぎながら妻の久乃が声を掛けてきた。
「あぁ、そうだな。・・・何だか長かったような短かったような・・・」
遠くを眺める視線で福太郎は朝食のトーストを一口齧った。
「よく頑張りましたね、お父さんは」
「お前の協力があったおかげだ、感謝しているよ」
「私は何も・・・」
その時、寝室から一人娘の里奈が眠い目を擦りながらダイニングへ姿を現した。休みの朝にしては大分早い起床である。
「あら、里奈、もう起きたの?今日は仕事、お休みでしょ。いいんだよ、まだ寝ていても」久乃が声を掛けると里奈は
「そういう訳にいかないよ。だって今日はお父さんの定年退職の日でしょ。最後の朝くらい、いってらっしゃいの挨拶をしなくっちゃね・・・」パジャマ姿でそう言った。
なかなか可愛いことを言ってくれるじゃないか・・・苦笑いを浮かべながら福太郎は熱いコーヒーを一口啜る。
「お父さん・・・」
「何だ?」
「本当に長い間、お仕事お疲れ様でした」里奈は首だけをコックリと垂れた。
「あぁ・・・有難う」面と向かって娘にそう言われると、やはり照れ臭いものだ。
一人娘の里奈はこの春学校を卒業してようやく社会の一員になったばかりだった。
里奈が就職した会社は年中無休の業態であるため、従業員は交代で休みを取得する。そして今日は里奈の交代休日の日だった。
その里奈がこうして朝早くから起きて福太郎の最後の出勤を見送ってくれるというのだから、やはり今日は特別な日、という実感が湧いて来る。
「あぁ、有難う。お父さんは今日で仕事は終わりだが里奈、お前はまだ社会人になったばかりだ。これから色々辛い目に会うかもしれないがまだ先は長い。何があっても諦めずに一生懸命頑張るんだぞ」と、柄にもない教訓を垂れてしまった。
「・・・ああ・・そうだった」
照れ臭さを隠すように福太郎は妻の久乃へ視線を移した。
「何ですか?」と、久乃。
「実は、明日からだが・・・」
何か言いたいことでもあるように福太郎は改まった態度で妻の久乃へ身体を向けた。
何かしら?この人、明日から始めたいことでもあるのかしら? 久乃は亭主から出る次の言葉を受け止めようと背筋を伸ばす。
「・・・その、何だ。朝飯はやはり米がいい。パンはどうもダメだ、力が出ない。明日から朝ごはんは米の飯にしてくれないか?」
仕事を辞めた次の日から力の出る米の飯とはおかしな所望だったが久乃は、何だ、そんなことかと安心し、口元を緩めて大きく頷いた。
「分かりました、そうしましょう」
「トーストが嫌だと言ってる訳じゃないぞ。今までは里奈も朝早く学校へ通ってたし、朝は何かと忙しかった。まぁ、トーストなら手間もかからないし・・・」その先は言わないでも福太郎の言いたいことは良く分かる。
「はいはい分かりました。明日から御飯を炊くことにしましょう。パンはしばらくお休みにしますね」
お安いご用とばかり久乃はもう一度、福太郎へ向かって首肯した。
「そうしてくれると嬉しいよ」
福太郎は満足げに頷いた。何気ない日常生活の一コマ一コマを何より大切に考えるこの人らしい要望と言えばそうだった。
「ところでお父さん・・・」
そんな大欲の無い亭主へ向かって、久乃はたった今思い付いたことを口にした。
「何だ?」
「今夜はお帰り、何時くらいになるのかしら?」
「いつもと同じだ、八時半ぐらいかな・・・」
「なるべく早く帰ってきて下さいね。私、今日、里奈と一緒に買い物へ出掛けて何かご馳走を作って待ってるから。お父さんが帰ったらささやかな<定年退職お疲れ様の会>でもやりましょう」
「うん、そうしようお父さん。私、腕に撚りを掛けて美味しいもの作っておくから!」と、里奈も乗り気満々だ。
嬉しいことを言ってくれるじゃないか・・・福太郎は妻と娘の言葉を素直に噛み締めた。
やはり持つべきものは家族である。久乃の協力もさることながら、娘の里奈も真摯に育てた甲斐があったと言うもんだ。もっとも俺はその大切な家族を護るため、長年、それなりの収入をこの家へもたらしてきたのも事実だが・・・そう振り返ると福太郎は少しばかり誇らしげな気持ちになることができるのである。
「ところでお父さん・・・」
背広の上着を福太郎の袖へ通してやりながら久乃が言った。
「やっぱり最後に定年退職の挨拶っていうの、するんでしょうね?会社の人たちの前で」
「あぁ、そのつもりだ。でもその挨拶ならもう考えているよ・・・」
著者:靴所娑婆子
日本のミステリー作家
生年月日:不明
性別:不明
年齢:不明
住所:不明
なお、一部噂によると某霊園で案内係りをしながら創作活動を行っていると聞く。
主な作品:
[娑婆子のミステリーシリーズ]や[悪意の交点]、[Tのために]、[真夜中のスパンコール]などがある。
詳しくはEメールアドレス: y.yoshi3254@gmail.com まで
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