AI音声解説
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遺産相続争い、あなたも巻き込まれる!
争いの起こる原因は何か?
それは一人の欲張りから始まる。
欲張りは嘘に嘘を重ねてくる。
それは実に不愉快で腹立たしい。
生命保険は、原則として、相続財産の対象ではない!!
タンス預金は抜きとられる‼
家裁の調停は裁判ではない‼
これらにどう対処すべきか?
主人公・杉岡俊幸の出した結論は?
事実に基づいたドキュメント小説!
定年退職して7年
2016(平成28)年3月20日(日)夕刻
杉岡俊幸は風呂に入り、これまでの7年をなにげなくふり返っていた。風呂温度も40度、心地よい暖かさであった。ジャグジーの小窓をほんの少し開けると、一瞬寒いと思えたが、適度な冷気がさわやかに感じられた。
7年前の2009(平成21)年3月31日、俊幸は経済産業省を定年退職し、一週間後の4月8日、郷里の静岡県東部の堀川市にもどってきた。いわゆるUターンである。堀川市は人口10万の県内中堅都市である。新幹線を使えば東京まで約1時間、温暖な気候で住みやすい街である。
新たな住まいは、かつて両親が呉服店を営んでいた駅前商店街の店舗兼住宅を住宅用に改築したものである。土地の広さは40坪とさほど広くはないが、鉄筋コンクリートの一部3建てで総面積は260m2、車庫と倉庫部分を除けば生活エリアは150m2あり、夫婦2人にしては十分な広さである。改築費用が2,000万円とかさんだのは、それまで14年もの間、誰も住んでいなかったからである。水回りが腐食して使えず、ガス管にも不安があったので、骨組みの鉄筋コンクリート部分だけを残し、あとはすべて取り換えというスケルトン・リフォームを採用した。
もとの建物は1975(昭和50)年建築であるから、すでに築後34年を経過していた。それでも、俊幸は両親に対し、これだけの建物を残してくれたことに感謝していた。改築資金は、退職金から充てることにした。
俊幸がこの店舗兼住宅をもらい受けるには理由があった。今から21年前の1995(平成7)年秋に、両親が店を閉め、駅前の店舗から約2km離れた大住町の土地に新たに二世帯住宅を建て、そこに弟の正幸家族と同居を再開したからである。その土地は、それより28年前の1967(昭和42)年、両親が取得したもので80坪の広さがある。
当時、将来、弟の正幸が独立したら与えるつもりで両親が取得した土地である。そして、その6年後の1973(昭和48)、そこに両親は正幸のためにと4DKの家を建てた。1995(平成7)年の二世帯住宅は、その土地での二度目の住宅である。それは大型二世帯住宅であり、3LDK+3DKというタイプであり、総面積は200m2ある。
俊幸が堀川にもどって3か月後の2009(平成21)年6月末に父の久雄が亡くなると、弟の正幸がその土地のすべてと、建物の4分の1を相続し、建設時にすでに2分の1を所有していたことから、建物全体の4分の3を正幸が取得することになった。残りの4分の1は母喜恵の名義である。俊幸は、駅前の店舗兼住宅に関し、40坪の土地と建物の6分の5を相続した。残りの6分1は母喜恵の名義となっていた。
父久雄の現金預金と久雄の生命保険は、正幸の発案で、母喜恵がその全額を相続することとなった。俊幸は、あえて反対するほどのこともないと考え、それに同意した・・・
著者:塚田朗(つかだ・ろう:ペンネーム)
1949年、神奈川県鎌倉市生まれ
1979年、某国立大学大学院経済学研究科博士前期課程終了
1979年、国家公務員となり、某国立調査研究機関で国際経済、外交安全保障に関する調査活動に専念
現役中、国際政治学会、国際経済学会、国際開発学会会員、調査のため25カ国歴訪
2009年、同機関首席調査官を最後に定年退職
以後、各地で国際政治経済及び教育に関する講演活動を行っている
以下、著作『荒園』との関係に基づいた略歴
1949年、神奈川県鎌倉市生まれ
〔「親孝行=自己犠牲」という失敗〕
高校卒業後、2つの大学に合格したものの、親孝行のつもりで家業を2年間手伝う。自己犠牲を美徳と考えていたからである。それを両親は喜んで受け入れた。大先輩は「それは親の甘えだ。子供の甘えは可愛いが、親の甘えは手に負えない」とアドバイスしてくれた。自分の人生、自分でしか責任とれない、ということに気づいていなかった。親を手伝うのが親孝行という教えを信じていたからである。
1年を経過した時、大学に進学した同級生や都市銀行、県庁、郵便局に就職した同級生が成長している姿に、自分がいかに「井の中の蛙」であるかに気づく。なぜなら、最初の1年でやった仕事は、商品の配達と回収だけだったからである。覚えたのは近隣の道路地図だけであった。
〔大学卒業後、結婚そして両親との離別〕
19才の2年目から、仕事が終わってから毎晩4時間受験勉強を続ける。20才で大学生となり24歳で卒業。1年生の時、伊東光春著『ケインズ』を読む。経済学から見た世の中の仕組みを理解できたと確信。同時に、企業会計を学ぶ。財務諸表の作成方法、その基本としての簿記会計、特に会計学と原価計算はその後の思考方法の原点となる。
卒業して半年で結婚。大学に残ることも考えたが、郷里に帰り稼業を手伝う。ある程度世の中のことがわかったと自信を得たからである。しかし、自分の甘さに再度気づかされる。両親は全く変わっていなかった。「息子はいつまでたってもヒヨコ」であった。
所帯を持って半年で両親と対立。その理由は、両親はあくまで自分たちの家庭の中に娘が一人増えただけという感覚しか持っていなかったからである。長男が独立して所帯を持ったという意識が全くなかった。
25才と半年で、両親との間に距離を置くことを決意し離別。小田原市内の企業に勤める。勉強になった部分もあるが、一生をかける職場ではないと認識。その主な理由は、会社の体質が、企業というよりは経営者一族と単なる使用人という関係だったからである。
〔大学院修了そして国家公務員に〕
1974(昭和49)年はオイルショックの影響で「狂乱物価」元年であった。再就職を考えるも、転職は極めて困難な状況にあった。
そこで、大胆にも大学院に進学することにした。試験日までに残された日数は80日。1日10時間のノルマを課し、受験勉強を開始。
26歳で大学院経済学研究科博士課程前期課程に入学。1979年、30歳で同課程を修了。その間、東京で家庭教師、地元で週末学習塾を開設し、4年間を食いつないだ。
大学院修了の前年に国家公務員試験に合格。某国立調査研究機関に入局。専門は経済・財政であったが、なぜか得意分野に回されることは少なく、外交安全保障政策を担当することになる。当初は、あまり気乗りせずにいたが、大学院時代に学んだ「現実主義的アプローチ」と安全保障政策との統合の必要性に気づく。国会で大荒れになった「PKO法案」「WTO条約」なども担当。海外出張は10回以上に及び25カ国を歴訪。国際会議では要人との接触もあり、大変良い経験をした。また、習慣の違いにより、あと一歩で「むち打ち100回」の刑を食らう危険もあった。
〔定年退職、郷里へのUターン、両親の死亡そして弟との遺産相続争い〕。
2009(平成21)年、定年退職。郷里鎌倉に戻り、廃業した両親の店を住宅用に改築し、そこに夫婦2人で住むことになる。
同年6月末に父死亡、そして2016年3月母が倒れ10月末に死亡。母が倒れた段階から弟による遺産の大半を獲得しようとする意図が明らかとなり、遺産をめぐる攻防が繰り返される。嘘に噓を重ねてくる弟に対し不愉快極まりないストレスを感じ、それを日記に書くことでその解消に努めた。
2017年、家裁の調停に持ち込む。調停の場でも弟は嘘に嘘を重ねてくる。前言と異なること数回という事例まである。しかし、調停はあくまで調停であり裁判ではない。2018年、担当裁判官から調停案が示される。極めて不満な案であったが、それを受諾した。そもそも調停に持ち込んだ理由が、弟の嘘を公式記録に残すことにあったからである。
調停案受諾後、数名の親友が遺産相続争いに巻き込まれていることを知る。自分の経験が彼らのため、あるいは広く、遺産相続争いに巻き込まれている人々に少しでも役に立てば、との思いで「ノンフィクション小説」の形で世に提示した次第である。
私の出した結論は、「相手を責めても解決にはならない。人はカネの魔力に弱い」「カネでウソをつく人間とは縁を切るしかない」ということである。
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