浮世絵ブーム五十年の伝説 ご購入はこちら 東洲斎写楽「孫引き別人説」の研究
江戸の浮世絵師、東洲斎写楽。

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本の概要・紹介文

江戸の浮世絵師、東洲斎写楽。阿波藩のお抱え能役者だったとされるその実像は写楽の名声が高騰すると共に疑われて、日本中を席巻した写楽ブームの中で正体をめぐる議論が飛び交い、その候補者五十人を超えるといわれる別人説が氾濫した。
ところが、数多ある別人説の中には実際にその出典とされる文献を確かめると提唱者の論旨がまるで曲解されているもの、それどころか別人説への言及そのものが存在しなかったものなど、ほとんど風評被害といいたい事例が多数見つかったのである。
ドイツ人ユリウス・クルトの浮世絵師「歌舞妓堂艶鏡説」は本当に彼のオリジナルの新説だったのか?
仲田勝之助が能役者「春藤又左衛門説」を発表したという事実は存在したのか?
三隅貞吉は上方浮世絵師「流光斎如圭説」を本当に唱えていたのか?
先行研究を直接は確認しないまま、曖昧な伝聞や杜撰な要約、断片的な情報が孫引きされることで写楽の議論にまことしやかにまぎれ込んでしまった「実在しない」言説の数々。そうした誤謬の発生は古く、一九一〇年、ユリウス・クルトによる最初の研究書『SHARAKU』の出版の直後からすでに始まっていた。過去百年間、東洲斎写楽に日本中の目を向けさせた別人説論争の真実と虚偽に迫る……!

本書で採り上げる先人たちの説
ユリウス・クルトの「歌舞妓堂艶鏡説」/仲田勝之助の「春藤又左衛門説」/三隅貞吉の「流光斎如圭説」/中村正義の「蒔絵師観松斎飯塚桃葉の社中説」「根岸優婆塞説」/宗谷真爾の「十返舎一九説」

書籍冒頭のご紹介


〇序

令和二年(二〇二〇)六月十九日。新型コロナウイルスが日本に上陸してからそろそろ五ヶ月が経過するかという頃、自由民主党の公式SNSで憲法改正をテーマとする広報四コママンガのシリーズ『教えて! もやウィン』が公開された。

ここでは「もやウィン」というキャラクターが、本題に入る前振りとして、十九世紀の自然科学者チャールズ・ダーウィンの学説を援用する形でこんなことを述べていた。[図版1]


ダーウィンの進化論ではこういわれておる

最も強い者が生き残るのではなく 最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。

これからの日本をより発展させるために いま憲法改正が必要と考える

――『教えて! もやウィン』第一話 進化論(自民党公式SNS)


この広報マンガが公開された途端、主にSNS上で批判のコメントが飛び交った。

何故か?

第一にこれはダーウィンの言葉ではなくて、ダーウィンの説だと称してしばしば誤用されることでよく知られた俗説だったため。第二にダーウィン自身が提唱した「進化論」に照らすなら、「唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」との論断は明白に誤まっていたからである。政権与党のSNSスタッフは自然科学史上の偉人の名声に寄りかかり、「進化論」をよく知らないなら調べもせず、現実にはダーウィンが唱えていない通俗進化論を都合よく持ち出してしまったのだ。

キリンの首が長いのは何故か? それはサバンナのような環境では長い首が生存に有利に働き、結果的に首の長い種が生き残ることができたからだ。サバンナで生き残るためにキリンたちが首を伸ばしていったという解釈を「進化論」の立場は採らない。

実在するダーウィンの「進化論」は、まわりの環境に適応して種自体が変化する――まったく新しい形質を獲得する――といった学説ではなかったのである。

現在のところ、「唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」という趣旨の言説は、一九六〇年代にアメリカ合衆国のレオン・C・メギンソンという経営学者がダーウィンの『種の起源』を引き合いに出して自説を論述したものが初出のようで、これが引用を重ねるうちにダーウィン本人の学説として広まったとされている。

メギンソンは自説の正しさを強調して、読者の理解をうながす分かりやすいアナロジーとして「進化論」を持ち出したけれども、生物学の専門家ではなく、正しい知見を持たなかったこの人物は、通俗的な理解に同調して、経営学上の彼の所説にとって都合がよい形に「進化論」を改変してしまったのだった。

問題は一九六〇年代の一経営学者による我田引水の論が、知名度で優るダーウィンの画期的な学説そのもののように誤認されてしまい、根本的に間違いだということは専門家からの指摘があったにもかかわらず、政治家や実業家、作家、生物学が専門ではない「有識者」や「評論家」たちによって、まことしやかに援用される事例が跡を絶たないということである。これらは全て、伝聞で得た知識の雑な受け売りなのだ。

こうした誤まった援用が延々と繰り返されているという空恐ろしい事実は、次の二つの教訓をまざまざと示してくれる。

第一に、演説、広報、テレビ番組、出版物……公の場で発信された情報といえども、発信者自身で直接典拠を当たって確かめたわけではない、他の誰かがどこかで話した程度のものの使いまわしの言説が世の中には思いの外に多い、ということ。

そして、第二の教訓は、たとえ誤解や虚構だったことが判明したところで、いったんメディアを通して拡散してしまい、世間一般にまるで事実のように浸透した言説について認識を改めさせるのはなかなか容易でない、ということである。

さまざまのメディアで雑多な情報が溢れる現代社会、消費者の側はもとより、発信者の側でさえ、それらの情報がどこまで信用できるものか、典拠は確かなのか、その一つずつをいちいちチェックするという余裕はない。感覚的に受け入れやすいもの、好みにかなうものを都合よく選び、自分たちの欲求に合致するという理由で信用することになりがちである。しかし、伝聞に依拠する危うさは全ての議論についてまわる。たとえ実質を伴わない虚構の説だったとしても、ひとたびメディアを通して拡散されると容易に「事実」になりおおせてしまうからだ。

ここに一見して豊かな情報に囲まれた現代社会の、深い落とし穴が広がっている。


東洲斎写楽という浮世絵師がいる。

喜多川歌麿、葛飾北斎と並び、現代日本においてもその名前をよく知られた江戸浮世絵の大物絵師の一人だ。

一般には「謎の浮世絵師」というフレーズと共に紹介される場合が多い。

近世日本も後期の寛政六年(一七九四)五月、豪華な黒雲母摺り、大判、三十点近い数の役者大首絵の新作を一度に売り出すという破格の待遇でデビューしたものの、一年に満たない期間に作風がめまぐるしく変わり、翌年新春の興行を最後にして行方を絶った短命の浮世絵師。それきり過去の絵師として埋没するはずだった写楽に思いがけず再評価の光が当たるのは約百年を隔てて、海外の、主にヨーロッパの愛好家の間で高い人気を獲得したからだ。

十九世紀後半のジャポニスムの流行の中で支持された浮世絵師は写楽一人に限らない。いわく、鈴木春信。いわく、喜多川歌麿。いわく、葛飾北斎。いわく、歌川広重。ただ、これらの有名絵師たちは写楽の場合とは違い、生前から大きな成功を収め、浮世絵の歴史の上では欠くことのできない大物として認知されていた。一人、写楽のみは正しく、海外からの目によって初めて「発見」された存在だったといってよい。

同じ時代からは受け入れられず、ずっと後世になって、海の向こうで初めて真価を認められたというドラマティックな逆転劇には日本人の心情を刺激する強い力があるようだ。以後、浮世絵師の中でも写楽はひときわ人々の関心を動かし、特別視されていった。

他の絵師にはない独特の画風や謎めいた経歴、再評価にいたる経緯があいまり、大正年間から昭和、平成の時世を通して、「謎の浮世絵師」写楽の存在は日本中の関心を集めてきた。熱狂的な写楽ブームにいっそうの拍車をかけたのが写楽の正体探し、いわゆる「写楽別人説」の盛り上がりである。

初めから写楽は「謎の浮世絵師」だったわけではない。

江戸の文献には、写楽の俗称は斎藤十郎兵衛、江戸八丁堀に住み、阿波藩公のお抱え能役者だったとの記述がある。明治から大正にかけて、日本の国内、国外を問わず、浮世絵研究者は文献の記述を素直に信用して、当たり前に写楽の正体は阿波藩の能役者だという認識だったのである。

ところが、写楽に関する情報量の乏しさと曖昧さ、写楽と斎藤十郎兵衛を繋ぐ傍証の欠如、そして何より、世界的な肖像画の傑作が無名の一能役者の余技の産物では評価の高さや話題性とは釣り合わないということで、同じ江戸人による証言は信憑性を疑われた。

昭和三十年(一九五五)、国立東京博物館に当時在職中の近藤市太郎は『講談社版アート・ブックス 写楽』(大日本雄弁会講談社、一九五五年)を手がけ、こう述べた。


こうして彼の在世当時の戯作者や批評家が冷たい眼で彼を見たために、必要な記伝は全く伝えられなかったのである。ところが写楽在世時より75年を経た慶応4年に到って龍田舎秋錦なる人が、この写楽の伝記に極めて重要な一行を書き加えた。それによれば、彼は俗称を斎藤十郎兵衛といゝ、江戸八丁堀に住し、阿州侯の能役者であったというのである。この資料の出所は未だ不明であるが、写楽研究にとって極めて重要なものである。しかしこの記事が75年後の記事であってみれば、根本資料ということは出来ず、そのまゝ信用してよいかどうかは問題であろう。ところが、其の後の研究はこの不確実な資料を基礎として急激に進展し、想像は想像を生んで夢の写楽を描き上げてしまった。

――『講談社版アート・ブックス 写楽』


浮世絵師写楽の正体を当時の文献には見えない別の誰か、おそらくは同時代の著名な文化人が何らかの事情で素性を隠して、役者錦絵を出版するために写楽の画号を一時的に用いたと考える「写楽別人説」が世の中の浮世絵通や商業メディアの間で支配的になっていくのはちょうどこの頃からなのである。

前述の近藤市太郎の危惧そのものは、裏づけの乏しい、不確かな文献にもとづいて写楽の伝記を論じることの危うさを指摘したものだったが、皮肉なことにその後の写楽の議論は同時代の文献がまったく信用できないという判断を前提にして、当の近藤の言葉を借りるなら、「この不確実な資料を基礎として」どころか史料が何もないところから推理と空想を膨らませて「急激に進展し、想像は想像を生んで夢の写楽を描き上げてしまった」という方向へどんどんエスカレートしていくのだった。

浮世絵研究から小説家に転じた高橋克彦の編著『謎の絵師 写楽の世界』(講談社、一九九二年)には「〝写楽は誰か〟について三十一の説」と題した一章があり、ここでは三十一件の「写楽別人説」の要約が並んでいる。これより早く『歴史読本』昭和六十年十二月号(新人物往来社、一九八五年)では「別人説全調査 写楽30の顔」のタイトルで、歴史作家祖田浩一が三十件の別人説を紹介している。

近世文学者中野三敏の著書『写楽 江戸人としての実像』(中公新書、二〇〇七年)では「結果は周知の通り、東洲斎写楽の画号に隠されたその素顔に比定された人物は、今やほとんど半百を越え、それについての著書や論文紛いの数は、恐らくその数倍にものぼる勢いとなっている」とあり、候補者の人数を大幅に増やしている。また、同書では「主な写楽別人説」として四十一件の別人説がリストアップされているのである。[図版2]

このように過去の別人説を一覧表の形に整理したり、ダイジェスト的な説明を並べることで簡便に参照できるようにする試みは、写楽の「謎」の解明をテーマとして著述されたいわゆる「写楽本」をはじめ、美術雑誌や歴史雑誌での写楽の特集記事、また、展覧会の図録などでは定番といえるものだ。例えば平成九年に開催された「写楽出現二百年 写楽と江戸の浮世絵展」の展覧会図録(東京放送、一九九五年)は「写楽別人説を見る」の一章を設けて、「歌舞妓堂艶鏡説」「十返舎一九説」「山東京伝説」「喜多川歌麿説」「葛飾北斎説」「中村此蔵説」「歌川豊国説」「鳥居清政説」「流光斎如圭説」「栄松斎長喜説」「勝川春好門人説」「司馬江漢説」「円山応挙説」「谷素外説」の都合十四説の解説が掲載されている。

もっとも、こうしたリストアップの試みが、本当にそれぞれの典拠を当たって正確な論旨を把握した上で書かれていたかとなると大いに疑問視せざるを得ない。

大岡信の「土座衛門の次郎太」や小島政二郎の「牟礼俊十」といったフィクション中の架空人物を写楽の正体にあてがったケースはひとまず措くとしても、出典のはずの文献をじかに確かめるとそのような主張自体がどこにも書かれていない、あるいは引用者による曲解や粉飾が混入して、提唱者として名指しされた人物の論旨とはまるで異なっているという場合が少なくないからである。

例えば上方浮世絵師の「流光斎如圭説」の場合、その出典とされた雑誌論文を読んでみても、東洲斎写楽と流光斎如圭を同一人物と論断するような文章は認められないのだ。

そして、目も当てられないのは提唱者本人の言説とは大違いの「実在しない」別人説が出版物やインターネット上の記事でまことしやかに採り上げられて、多くの場合、それらは引用者の誤解と思い込みにもとづく批判を一方的に浴びせられ、再検証や訂正の機会はいっかな与えられず、不当な責任を負わされたままになっているという事実なのである。それが誤解にしろ、粉飾にしろ、まったくの捏造の場合にしろ、見当違いの批判で名前を上げられた当人たちにはたいへんな不名誉であり、風評被害としかいいようがない。

こうした悪循環と混乱には、杜撰な要約、固定観念、思い込み、先入観、願望、誇張、選り好み、研究史の軽視、無責任、後世の視点で論断できるという立場からくる優越感、有象無象の過去の旧説ということでの侮り、他の誰かによって出典はチェックされているはずだという横着と御都合主義等々、さまざまな人的要因がからんでいるが、根底の理由を突き詰めるなら、それは先人たちの業績に対する理解と敬意の欠如という点に尽きる。他の誰かがどこかで吹聴していた事柄の受け売りではなく、出典を自分の目で通読していればこのような間違いはそもそも起こらなかったはずだ。

孫引き、という言葉がある。

何らかの話題について、直接には出典の確認を取らず、他の出版物だったり、テレビ番組だったり、インターネット上の記述だったり、どこかで目にした話題をもっともらしく使いまわしてしまうことだ。

ここでは提唱者とされる本人たちにとっては迷惑極まりない、孫引きの繰り返しによって伝言ゲームのように変容した写楽別人説の紹介をひとくくりに「孫引き別人説」と名づけることにして、代表的な事例ということで「歌舞妓堂艶鏡説」「春藤又左衛門説」「流光斎如圭説」「蒔絵師観松斎飯塚桃葉の社中説」「根岸優婆塞説」「十返舎一九説」の六説を検討してみたい。

現在においてこれらの所説は、過去の議論の中に埋もれてしまい、写楽研究の場ではもはや顧みられることのないものばかりである。

いまさら誤解を是正して、正確な論旨の確認に努めたところで意味のない揚げ足取りの行為のように捉えられるかもしれない。

だからといって、先人の説を無責任に改竄するような行為を黙過し、デタラメな説明を議論の中にまぎれ込ませたまま放置しておくことが、誤解や偏見を助長することはあっても、研究史の整理と正しい理解に益するところがあるとはとても思えない。それこそ「想像は想像を生んで」偽史や都市伝説、フェイクニュースの温床にもなるだろう。そして何より、孫引きの言説を振りかざして先人たちの研究をあげつらってみせる手合いが、当人の責任ではない論点で後世の批判に晒される先人たちよりも真摯な態度で写楽研究に臨んでいるということは考え難いのである。

ここに筆者が書き記すのは、かつて日本中が東洲斎写楽という浮世絵師の「真実」を突き止めようとして新しい知見に群がった写楽ブームの中で、いい加減な孫引きに依拠した議論がどれほどまかり通っていたかのあからさまな記録に他ならない。

この試みが、写楽研究にまつわる誤認の再生産に歯止めをかけ、不当な扱いを強いられた先人たちの名誉回復に些少なりとも貢献できるならば幸いである。

目次
  1. 〇序
  2. 〇ユリウス・クルトの「歌舞妓堂艶鏡説」
  3. 〇仲田勝之助の「春藤又左衛門説」
  4. 〇三隅貞吉の「流光斎如圭説」
  5. 〇中村正義の「蒔絵師観松斎飯塚桃葉の社中説」「根岸優婆塞説」
  6. 〇宗谷真爾の「十返舎一九説」
  7. 〇結
著者紹介

著者:弐鳥傘寿

歴史オタクから転向して、偽史、陰謀論、通俗歴史解釈等々にもっぱら視線をそそぐトンデモ歴史ウオッチャー。もともとは歴史上の話題を仕事のネタ探しとして調べていたものの、巷間に氾濫する言説には誤謬や歪曲、脚色、捏造のたぐいがまことに多くて、落とし穴にはまることもたびたび。現在では歴史を追いかけるより、歴史のトンデモを追いかける方ですっかり手一杯の状態に。人間はどうして歴史を書き換えようとするのか。歴史の真実を明らかにすることは途方もない困難ですが、歴史のトンデモを明らかにすることでしたら微力なりともきっと貢献できるはず。京都市在住。

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